船鉾(ふねほこ,ふねぼこ,ふなほこ) 新町通綾小路下ル

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 『日本書紀』に記される神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅出船の説話が由来で,「出陣の船鉾」の別名を持つ。

 船形をした鉾の舳先(へさき)には金色の鷁(げき)と呼ばれる想像上の瑞鳥を飾り,艫(とも)には黒漆塗螺鈿(らでん)の飛龍文様の舵をつけ,船端には朱漆塗の高欄をめぐらし,船の上の唐破風入母屋造りの屋根に2本の旗竿を立て,そこに紅白の吹流しと長旒(ちょうりゅう)をはためかせる。


船尾の部分

 鉾の屋形内に飾る御神体は,神功皇后と陪従する磯良,住吉,鹿島の合計四体。主神たる神功皇后のは,面を着け,頭には天冠,紺金襴の大袖,緋の大口, 緋縅(ひおどし)の大鎧を付けている。神功皇后の後ろに鹿島明神,舳先では海神安曇磯良(あづみのいそら)が龍宮の満干珠(みちひるたま)を住吉明神に捧げている。
 これらは元和2年(1616)の銘がある古い作品。鹿島明神の長刀は,井上和泉守真海による寛文年間(1661-1672)作の逸品。

 皇后がかぶる神面は,文安年間(1444-1448)の作品で,安産に奇瑞があると伝えられ,宮中でも尊敬されて明治天皇誕生の際には宮中へ参内した。
 神功皇后がこの出船の際に応仁天皇を生んだことから,皇后の御神体は晒(さらし)をたくさん巻いて巡行し,巡行後にこれを安産祈願の御腹帯として授与する。

 現在の船鉾は,宝暦年間(1751-64)に計画され天保年間(1830-1844)に完成したもので,高さ1.3m,両翼端2.7m。

 鷁は長谷川若狭による宝暦10年(1760)の作品。

 船尾の黒漆塗青貝螺鈿の舵は,狩野派鶴澤探泉の下絵による寛政4年(1792)の作品。

 下水引の「金地雲龍文」厚肉入刺繍は,同町出身で応挙門下である西村楠亭(1775-1834)の下絵による天保7年(1836)の作品。
 天水引は,1992(平成4)年に新調された『草花文刺繍』。

 見送の「草花文様刺繍天」は1993(平成5)年新調。


 


 

新町通の巡行

舳先の鷁(げき)

 


 

雨の巡行

雨でも決行される山鉾巡行。
雨を避けて,鷁は屋根をかぶっています。


新町へ帰ってきた船鉾

大勢の観光客に見送られる船鉾

宵山の様子 | 写真集



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